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2019/03/06  (5:40 am)
カテゴリ: Web ぽれーる : 
執筆者: staff (5:40 am)
星置の歴史を歩く(第38回) 村元健治

「手稲鉱山のアメリカとの関わり〜憎き・恐ろしき・驚きのアメリカ」(手稲鉱山関係)

 手稲鉱山は、昭和10年(1935年)に三菱鉱業(蠅経営に乗り出してから本格的な操業が行われるようになった。
三菱は云うまでもなく我が国の会社なのだが、手稲鉱山ではアメリカとの関わりでいくつか紹介したいエピソードがある。
 まずその一つは戦前のことだが、星置通洞坑の近くに当時のアメリカの大統領だったフランクリン・ルーズベルトの顔に似た岩があり、これを鉱山職員らが「敵国憎し」でその岩に向けて石を投げつけていたということがあった。
 人呼んで「ルーズベルト岩」と呼ばれたこの岩は、大統領が仰向いた横顔に似ているもので、写真の通り前頭部の所は欠けているものの鼻から口、顎にかけて似てもいないでもない。
 アメリカとの戦争に突入してからは、日本を痛めつける許せない敵国の大統領として、その顔に向けて石を投げつけたというから、当時の世相を反映した庶民の行動だったと思われる。このアメリカとの戦争で、鉱山では終戦1カ月前(1945年)の7月15日、同国のグラマン戦闘機による空襲を受けたことがあった。
幸い死傷者は出なかったが、住民たちにとって極めて恐ろしい出来事だった。
 次に紹介するのは、これも戦前の昭和14年(1939年)の頃の話だが、手稲鉱山がアメリカ製の「RD-7除雪車」を購入したが、その除雪能力の威力は大変なもので、住民たちは改めて驚かされたということがあった。
 当時の鉱山を含めて地域の除雪は極めて不十分なものだった。このアメリカ製の除雪車は見るからに頑丈そのもので、鉱山はおろか当時軽川駅と呼ばれていた手稲駅までも除雪を行って人々の耳目を集めた。
この脅威の除雪車は、その威力が余りにも素晴らしかったので、その後、あちこちから出動の要請があって各地で大活躍したという。
 最後に紹介するのは終戦後、札幌に来たアメリカの進駐軍の兵士が鉱山にあった山神社の階段をジープで一気に駆け上がって、人々を驚かしたということがあった。
 この山神社には、急峻な階段が108段もあったが、そこをジープが一気に駆け上がったというのだから、その光景を見ていた人々は呆気にとられるとともに、その馬力に改めて目を見張った。その様子を見た人々の間から「これならアメリカとの戦争に我が国が負けたのも無理はない」という声なり、ため息が出たという。













今月のワンニャン♪

 今月は星置にお住まいの田中さん宅のキキちゃん(チワワ、♀、9歳)です。
 娘が6年生の時、狆(チン)という犬種を飼うつもりでペットショップに行きました。              
ところが狆は、すでに大きく育っていて迷っていたところ、手のひらに乗るくらい小さなキキに出会いました。
 その頃は、犬の毛色も濃いグレーで耳も垂れていて何の仔犬?とよく聞かれました。
 とても臆病で 吠えることも知らないのかな?と言うくらい大人しかったのですが最近は外でも気になる人や犬に吠えてしまい、強気になったな と思います。
車が大好きで、何処へでも一緒に行きたがります。置いていかれると窓辺で哀しい顔をして見送ります。かまって欲しいときは上手に前足で「撫でて!」と促します。
可愛い我が家の癒し犬です!
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2019/02/04  (9:30 am)
カテゴリ: Web ぽれーる : 
執筆者: staff (9:30 am)
星置の歴史を歩く(第37回) 村元健治

エピソード編 「鉱夫たちにとって気になる存在 だった選鉱場の女たち」 (手稲鉱山関係)

 これまで「星置の歴史を歩く」と題して様々なジャンル・テーマに分けて、星置・山口の歴史を紹介してきたが、シリーズの最後にエピソード編として肩の凝らない「こぼれ話」を紹介してゆくことにしたい。
 この種の話としては、何といっても手稲鉱山に関係した様々なエピソードが非常に多くあるので、ここから紹介することにしたい。

 手稲鉱山では、鉱夫たちはもちろん、すべて男性だったが、その他の部署では女性たちが数では多くは無かったがいた。
 彼女たちがいた部署は、選鉱場をはじめ、事務所、診療所、売店等だった。人数で一番多かったのは、選鉱場だった。
ここには鉱山の従業員として働いていた女性はもちろんのこと、戦中時には鉱山外から戦時労働力として各職場から派遣された女性たちもいた。中にはセーラー服を着た女学生たちもいた。
 彼女たちの仕事は、ベルトコンベアーで流れてくる岩石の塊の中から瞬時に金銀銅を含む有力な鉱石を選び抜くという作業だった。
流れ作業で、次から次へと鉱石が流れてくる中で滞ることなく素早く作業をしなければならないため、タスキそれも赤いタスキを掛けたりした女性たちもいた。
 とにかくこの選鉱場は女性たちならではの職場で、その意味で男性ばかりの鉱山では非常に「華やかな場所」でもあった。
 右を向いても左を向いてもむさ苦しい男ばかりの職場で働いている鉱夫たちにとっては、この女性たちがいる職場は、大変、気になるところで一度はじっくり見ておきたいところでもあった。
 そのような状況なので、勇気のある(?)鉱夫の中には、たいして用事もないのに、選鉱場のある長い階段を上って女性たちを覗き眺めたり、あるいはサインを送ったりするツワモノもいたという。
 鉱山では、これら選鉱場の他に、先に紹介したような部署にも女性たちはいたが、その数は決して多くは無かった。そうした中で、鉱夫たちの間では、密かに女性たちのランク付けがあったようだ。
それによると一番の人気は診療所の看護婦で、次いで事務所・売店の女性、そして最後に選鉱場の女性というような序列があったそうだ。












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平日午前6時〜午後7時まで。日曜・祝日午前6時〜午後12時までとなります。
配達休止の連絡等はお早めにご連絡ください。
 ご不便をおかけ致しますが何卒ご了承ください。












今月のワンニャン♪

 今月は金山にお住まいの茶碗谷さん宅のミーちゃん(三毛猫、♀、7歳)とチュンちゃん(セキセイインコ、12歳)です。
 私は平成23年9月27日に誕生しました三毛猫の「ミーちゃん」です。ご覧のとおりのミックスですが猫大好きのお宅で成長し幸せな日々を過ごしています。
 僕はミーちゃんが生まれる5年以上も前から住んでいるセキセイインコの「チュンちゃん」です。
 ふたりはと言うか二匹はと言うか、見てのとおりの仲良しです。金網越しですけどね。
 僕のお部屋の掃除のときもミーちゃんはそばでじっと見守ってくれていますよ。
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2019/01/03  (10:17 am)
カテゴリ: Web ぽれーる : 
執筆者: staff (10:17 am)
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今月のワンニャン♪
今月は星置にお住まいの鈴木さん宅のパールちゃん(ミニチュアダックス、♀、11歳6ヶ月)です。
 大好きな物はトマトです!
 同居のわんちゃんが最近亡くなり寂してお父さんお母さんに甘えてます。
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2018/12/08  (2:37 pm)
カテゴリ: Web ぽれーる : 
執筆者: staff (2:37 pm)
劇団四季 リトルマーメイド

劇団四季とディズニーの新次元ミュージカル、ついに北海道へ!

 主人公のプリンセス・アリエルと共に愛され続けるアニメーション「リトル・
マーメイド」。ディズニーの超人気作がミュージカルになって、東京で初公演を飾ったのは2013年。依頼、各地で大ヒットを続け、この度ついに北海道へ!
 北海道四季劇場のファイナル公演として、魅力あふれる、華やかな舞台をお届けします。
 幕が開くと、そこは神秘的な海の世界。しなやかに泳ぎまわる人魚、海の生き物たち・・・             
まるで本当に海の中にいるような驚き、初めての「新次元体験」があなたを待っています!

     ストーリー

 海底の世界に住む人魚アリエルは、地上の世界にあこがれる18歳。ある日、航海中の船に近づき、人間の王子エリックに恋をしてしまう。しかき船は沈没し、アリエルは溺れた王子を歌声と共に介抱する。朦朧とした意識の中で聴いた美しい歌声が忘れられない彼は、その声の持ち主に心惹かれ、探し出そうとする。
 一方、恋心を募らせるアリエルに目をつけた海の魔女アースラは、「その美しい声と引き換えに、人間の姿に変えてやろう」と話を持ちかける。しかしそれは、三日間のうちにエリックとキスを交わせなければ、アリエルはアースラのものになるという契約でもあった。悩みながらも人間の姿になることを選ぶアリエル。
果たして彼女の運命は・・・。



■12月22日〜2月28日   
■場所 北海道四季劇場(札幌市中央区大通東1丁目10中央バス札幌ターミナルすぐ横)  
■料金(税込) S1席10800円(8640円)、S席大人10800円(8640円)子ども5400円(4320円)、A席大人8640円(7560円)学生4320円(3780円)、B席6480円(5940円)、C席3240円()内はウィークデー特別料金です。
 ■チケット予約 インターネット予約(四季オンラインチケット)「489444」で検索、電話予約(劇団四季予約センター)0120‐489444、直接購 入北海道四季劇場(札幌市中央区大通東1丁目10中央バス札幌ターミナルすぐ横)、ローソンチケット(オペレーター予約午前10時〜午後8時)0570‐000‐407











今月のワンニャン♪

 今月は星置にお住まいの葛西さん宅のゴン君(ビーグル、♂、10歳)です。
 札幌に来て3ヶ月。毎朝、鶏肉入りの美味しい手づくりごはんをたべてます!
お散歩は1日3回、見かけたら声をかけ
てね!
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2018/11/04  (10:31 am)
カテゴリ: Web ぽれーる : 
執筆者: staff (10:31 am)
星置地区センター料理講座
本格的手打ちそば教室
新粉で打ったそばを持ち帰ります。 
■日時 12月1日(土)。校30分〜12時30分 ■隠音30分〜15
時30分              
■定員 先着各8名         
■受講料 2300円(材料費込)  
■講師 吉田勝氏(札幌星置そば道場)
■持ち物 エプロン、バンダナ、布巾 
■会場 星置地区センター2階研修室(星置2条3丁目14‐1)     
■申込 11月15日(木)午前9時から電話又は窓口で受付695‐3220
受講料は当日納入











星置地区センター料理講座
新鮮野菜で漬物づくり
§手軽に作れるにしん漬け      
§甘酒で作るべったら漬け風     
§かぶの塩昆布ゆかり漬け      
■日時 11月26日(月)10時〜12時30分             
■定員 先着16名         
■受講料 2600円(材料費込)  
■講師 坂本美知枝氏        
■持ち物 エプロン、三角巾、布巾  
■会場 星置地区センター2階研修室(星置2条3丁目14‐1)     
■申込 11月13日(火)午前9時から電話又は窓口で受付695‐3220
受講料は当日納入











今月のワンニャン♪
 今月は星置にお住まいの三上さん宅のテリー君(ユークシャーテリア、♂、7ヶ月)です。
 とっても好奇心旺盛でわんぱく盛りのテリー君。
 毎日が格闘です!
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2018/10/04  (7:00 am)
カテゴリ: Web ぽれーる : 
執筆者: staff (7:00 am)
星置の歴史を歩く(第36回) 村元健治

己の足から馬を経てマイカー全盛時代へ〜乗り物の変遷〜

 今日の星置の住民たちが生活などに使う乗り物は、JR、バスなどの公共的乗り物以外では、言うまでもなく圧倒的に乗用車が多い。「マイカー全盛時代」と呼ばれる状況で今や、一家に1台は当たり前の時代。それだけで足りなくて奥さんの車、息子の車というようにそれぞれが持つことも珍しくない時代にもなった。とにかく大変なというか贅沢な時代になったものだ。
 ところで、かつての昔の人たちの乗り物とは、いったいどのようなものだったのであろうか。少し振り返ってみたい。人が使う乗り物というと古今東西を問わず馬が多かったが、山口、星置に人々が入植した明治15〜20年頃には、まだそれら馬たちはほとんど導入されていなかった。それ故、頼るのは、自分の肉体に付いてある2本の足だけだった。
 とにかく昔の人たちは、歩くことには厭わなかったというより、それしか方法が無かったので止む無く歩かざるを得なかったのである。
 その後、馬が導入されるようになると、単に田畑を起こすだけでなく、物資を運搬するなど開拓を進める上で欠かすことのできない大変、貴重な家畜となった。
 さらに馬たちは、これら開拓作業に加えて人間たちをも同時に運んでくれる重要な乗り物の役割も果たしてくれた。その意味で、この乗り物は現代のマイカーに匹敵するものだったのだ。
 この乗り物は、最初、乗せる人は1人だったが、その後、複数の人々を乗せるものとして馬車が登場してくる。これら馬車の活躍する季節は、云うまでもなく雪の無い季節で、冬は馬橇に替わった。
 いずれにしても馬車をフルに活用する時代になると、人々はよりスムーズかつ快適に走る乗り物としての馬車にするため車輪、覆いなどの面での工夫を重ねていった。
 とくに、その中でも車輪に対する工夫・改善は極めて重要なものだった。
 当地にはあったか否か定かではないが、道内の開拓地では丸太を輪切りにしたものをそのまま使う所もあったが、大抵は車輪に鉄の輪を付けた「金輪馬車」と呼ばれる馬車から始まって、揺れの防止と快適さを求めて自動車のタイヤを使う「保道車」へと変わっていったところも多かった。とく「山口スイカ」で知られる山口地区の農家の人たちは、札幌の円山市場に売り物のスイカを割らないで出荷するためにも、保道車の導入は欠かせなかった。
 この保道車は金輪に比べると、振動も少なく物資の運搬はもとより人の乗り物としても非常に快適なものだったらしい。
 とにかく馬たちに物資を運搬してもらうなり、人を乗せてもらうなどの時代が、戦前から戦後の高度経済成長時代まで長く続いた。
 しかし、昭和30年代後半から始まる高度経済成長時代に入ると、トラクターを導入する農家が少しづつ増え始めてきて、それに伴い馬たちを手放す農家も徐々に増えていった。
 このトラクターの進出は、あくまでも耕起、収穫等を中心とした面ではあったものの、これはまさに馬たちが行っていた作業だったのだが、その作業を奪うだけでなく、さらに人をも乗せるというこれまでの馬の役割を乗用車に切り替えるなどして、とにかく馬たちの役割・出番を無くしてしまうことに繋がっていった。
 これが、今日に繋がる「マイカー時代」へと通じていく道なのだが、その初めはオートバイから始まってオート三輪車、トラックへと主に物資の運搬面から始まるのだが、やがて人を乗せる専用の車のとして乗用車が登場してくる。自動車メーカーも、一般の人々でも購入できるよう価格をはじめ車種などの面で様々な工夫をし、それを大々的に宣伝していく体制が敷かれたこともあって、人々は3種の神器の一つである車の購入を積極的に
行っていった。こうして始まったマイカー時代は、その後、絶えることなく今日にまで至っている。
 自分の足だけが頼りだった時代から始まって、馬に頼る時代を経て、マイカー全盛時代へと人々が利用する乗り物は、目まぐるしくスピーディに変化をさせながら、今日に至っている。しかしマイカー全盛時代を謳歌する今日、自分の足で歩くことが急速に減ることによる足腰の衰えを真剣に心配しなければならない時代にもなり、改めて文明の利器の活用の
仕方が問われる時代にもなった。   
(次回は2019年1月からエピソード編を連載します。)

保道車(「郷土史ていねきた」より借用)









今月のワンニャン♪

今月は星置にお住いの苫米地さん宅のノア君(雑種、♂)です。
とても恥ずかしがりやです。
飼えなくなった方からわが家へ来ました。
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2018/09/04  (6:40 am)
カテゴリ: Web ぽれーる : 
執筆者: staff (6:40 am)
星置の歴史を歩く(第35回) 村元健治 

〜住宅の変遷〜

今日の星置の住宅を眺めると、星置駅周辺の高層マンションから始まってオーソドックスな三角屋根の住宅、無落雪のフラット屋根の住宅、スエーデンハウス、アメリカンハウスなどの輸入住宅などなどまさに多種多様な住宅のオンパレードだ。
こうした外見の違いだけでなく、その内部も見ても、いずれの住宅もアルミサッシ、複合ガラス、セントラルヒーティングなどの機密性・暖房効果を高める建築・建具資材などが使われて今や、冬でも真夏のような服装で快適に過ごせるほど暖かいものになった。
こうした快適な住まいに暮らしている現代人の我々には、昔の人たちがこれら住宅のことで大変、苦労したことについて中々、思い至らないのだが、今一度、振り返ってみることも決して無駄でもあるまい。
明治17年(1885年)に岩国から山口地区に入植した村岡喜兵衛の末子だった乙次郎氏が昭和40年(1965年)に、入植当時の住居について次ぎのように回想している。
「開墾の最初に手がけたのは小屋だった。小屋は、幅2間半の長さ4間くらいの堀たて、屋根は笹や草を敷いた上に荒筵を敷いただけのものであった」(手稲町誌 上 昭和43年)。
このように開墾作業の最初の仕事というものが、自分たちが住む住居を作ることから始まるのだが、これを称して「着手小屋」とも言った。その形は周りにある木を切って丸太とし、それを両手で合掌するように組み合わせて作ることから「合掌小屋・拝み小屋」とも呼ばれた。屋根、壁はもちろん、中の土間も含めてこれまた周りに密生している草・笹などで覆った。丸太を地中に埋めることから「掘立小屋」とも呼ばれたが、入口は筵などで塞いだが、風雨はもちろん雪などが容赦なく吹き込むなどおよそ人間が住むような代物では無かった。
とりわけ寒さに慣れていない山口、広島県からの入植者たちにとって、想像を絶するほどの降雪と寒さの厳寒期の中で、このような粗末な小屋で暮らすことはとても耐えられないほどの辛さ・苦痛であったと思われる。
他の地区でも見られたが、そうだったようだが星置、山口地区でも朝、起きると布団の襟が霜で吐く息で真っ白になることはもちろん、雪が絶えず入り込んだりしてとても難儀したことは良くあったことだ。
こうした苦難の住まいを経て、その後板囲い、わら(麦)葺き、土台付きの家へと徐徐に人間らしい住居に替わって行くのだが、土台付きのことで、ここで一寸、興味深いことを紹介すると、その土台の礎石として星置川の玉石が使われたことがあったという。
このことはそれだけ大きな石が、当時の星置川にあったということを示していようが、とにかくそのような変遷を経て、星置・山口の住宅は、時代とともに改善されて今日の立派かつ快適で、しかも多様なものへ移り変わってきた。











今月のワンニャン♪

 今月は星置にお住いの水谷さん宅の凛花ちゃん(北海道犬、♀、7ヶ月)です。
 元気盛りでとてもパワフルなおてんば娘!
 でも、ちょっぴり甘えん坊な我家のアイドルです。
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2018/08/05  (9:49 am)
カテゴリ: Web ぽれーる : 
執筆者: staff (9:49 am)
星置の歴史を歩く(第34回) 村元健治 

自給自足時代から購入・グルメ時代に  〜食生活の変遷〜

 今日の星置の人たちを含めた現代の私達の食生活、食べ物を巡る状況は、、飽食、外食、グルメという言葉に象徴されるように世界各地から輸入された食糧を使った多種多様な食べ物・料理が出回っている時代と言える。
 時代を遡ってこの地に入植した人々は、いったいどのような食生活をしていたのであろうか。原点とも言うべき入植当時の食生活を振り返ってみることにしたい。
 手稲町誌(42・上)に、明治17年( 1884年)の山口村の農産物の作付反別(面積)が掲載されている。それによると総面積30町(ha)のうちベスト5を挙げると.愁丕.2町⊂豆(アズキ)5.5町B臚Γ.3町ぐ(アワ)3.2町デ藁觸(ジャガイモ)3町の順となっている。
 後にメインの作物になる小麦は明治27・28年ころより、また米は明治末から大正時代にかけてそれぞれ栽培されるようになるのだが、この入植当初の頃は無い。
 これら5作物は、小豆、大豆の一部は多少販売もされた可能性はあるものの、そのほとんどは自分の家で食べるために作った自給用作物と言える。特にこれら作物の中で注目されるのは,離愁个鮹羶瓦豊い琉澄△修譴紡茖業嵬椶飽銘屬垢襪海箸砲覆覽(キビ2.3町)などの雑穀類と呼ばれる作物が非常に多かったことだ。
 これら雑穀類は、ソバの60日収穫に典型的に見られるように、かなり野生に近い作物だけあって、収穫も早くできるだけでなく、病虫害に強い上、冷害にも強かった。
 とりわけソバは、主作物の中でも最も早く収穫できたし、荒蕪地でもよくできた。
 料理法はソバ粉をぬるま湯に入れた後、熱湯で掻き混ぜて作る「ソバ掻き」あるいは「ソバ団子」が良く食べられた(山口開基百年史)。
 また雑穀類ではないがイ稜藁觸鬚蓮∨務て擦任魯献礇イモと呼ばれ早ければ6月下旬頃から出る新イモを食べることもできた。当時は「ゴショ(五升)イモ」とも呼ばれて、冷害知らずで1個のタネイモから五升分のイモが獲れるということで名付けられたものだ。
 とにかく開拓農家にとっては、馬鈴薯はソバとともに飢えを救ってくれる無くてはならない作物で「救荒作物」の一つとして歓迎された。
 当時の食生活というのは、こうした地域で獲れる作物を使うしかなかった。したがってその食材も非常に限定されるばかりでなく、その調理の味付け法も砂糖が極めて高価なものだった故、塩を主体とした味付けされたものが多かったゆえ、非常に単純・素朴なものだった。
 入植当時の食生活で忘れられないものに、栽培面積にはもちろん入れられることが無かったが、開拓民たちに広く、活用された山菜があった。
 作物がまだ十分に実らない4・5月を中心にフキ、ワラビ、コゴミ(クサソテ
ツ)、セリなどの多様な山菜を採食して、冬の間、欠乏していたビタミン,ミネラルを補給するなど不足する食糧資源を補った面は大きい。
 いずれにしても、山菜を含めた自給自足の食生活からその後、野菜類、米麦などの穀物類が作付されるなど多様な作物が作られるようになっていくと、自給生活も味噌、豆腐はもちろん、漬物の製造などに広がっていくとともに、色々な料理も出てくるなどその食生活は少しずつ改善されていったのである。
 開拓当初、盛んに作られたアワ、キビは、今や小鳥の餌になっている。また山菜は、一部の人の嗜好品となるなど、その変わり様には驚かされる。
 他方、現在、謳歌・堪能されているグルメも、その陰で進行する飽食からくる肥満を始め心臓病、ガンなどの成人病( 生活習慣病)の発生などを考えると、改めて食生活のあり方が鋭く、今日問われてきていると言えよう。












今月のワンニャン♪

 今月は星置にお住まいの肥塚さん宅のパインちゃん(オカメインコ、♀、13歳)です。
 チャームポイントはほっぺが赤いところだよ!
 お腹が空いた時や遊びたい時など何かをして欲しい時は声の調子が変わります。

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2018/07/03  (6:30 am)
カテゴリ: Web ぽれーる : 
執筆者: staff (6:30 am)
星置の歴史を歩く(第33回) 村元健治 

住民たちの熱意・寄付で始められた教育

 教育が実施されて神社と墓の設置もそれぞれ行われるようになったら、その開拓集落は定着段階に入ったとみられる。その意味で、これら3大取り組みの状況は、開拓集落の定着度合いを占うメルクマール(指標)ともいえる。
 さてこれらの中でも子弟教育に繋がる教育は、最も重要な取り組みとなるところだ。そこで今回は星置・山口地区の教育について見ることにしたい。
 星置、山口地区の子供たちが通う札幌市手稲北小学校はかつて山口小学校と呼ばれていた。現在の手稲北小学校と呼ばれるようになったのは、昭和27年(1952年)からのことだ。その山口小学校の創設は、山口地区の住民たちによって行われただけなく、その後相次いで発生した火災に際しても寄付によって再建させるという取り組みが行われたのだ。住民たちの教育に対する並々ならぬ熱意・意欲を感じさせるものといえる。
 山口地区は、明治14年にリーダーの山口県出身の宮崎源次右ヱ門らの入植を契機に、翌年の52戸の入植と本格的に進んでいった。注目の子弟教育については、住民からの要請を受けて生田春正が明治19年(1886年)に寺子屋を設立したのが始まりと言われている。ここでは子供たちに読み書きと算術が教えられたが、あいにくこの寺子屋は山火事により焼失してしまった。しかし、その後、間もなく住民たちの手で再建されたよう
だ。
 こうして山口地区での子弟の教育が曲がりなりにもスタートするのだが、その後、寺子屋では手狭で子供たちに十分な教育ができないとして、明治25年(1892年)になって、住民から提供された土地に、21坪の校舎が建てられた山口村尋常小学校が設立された。これら建設にかかった経費は200円だったが、当時、政府などの行政機関からの支援が十分では無かったこともあってほとんど住民たちが寄付の形で負担したという。
 開校当時の生徒は3カ年の修業のため1〜3年生までしかいなく、総勢20人足らずで決して多くはなかった。教科は国語、算術に修身と体育がそれぞれ加わえられて4科目となった。
 この学校には、山口はもとより星置の子供たちも通学するなど、それなりの整備もされていった。しかし明治32年( 1899年)10月に不運にも再び、火災に見舞われ校舎はもとより、器具、書籍等を全焼させてしまう事態となった。
 この災難に直面して関係者の驚きと苦悩は大変なものだった。住民たちは一日も早く学校再建に取り組まねばと思い、再び、寄付集めに奔走した結果、校舎の建設費等の経費の3分の2(375円)を寄付で集めたのだ。
 この取り組みは、当時のマスコミも注目するところとなって北海道毎日新聞(明治32年11月3日付け)の中で「70戸の小村にして地味痩土、1カ年の収穫物は僅々3千円過ぎずにして到底、校舎を新築するの余力なく…」と記述しているように住民は大変、厳しい経済的状況にあったにも関わらずこれだけの寄付が集められたことが報じられている。
 住民たちの子弟教育に対する熱い思い、並々ならぬ決意を見る思いがする。
 この地域住民の寄付等により建設はスムーズに進み、火災後のほぼ1年後の明治33年(1900年)に30坪という前の時より大きな校舎が無事建設された。
 この後、同小学校は教員の増員、教室の増設、教科の拡充等を逐次行っていく。
 また校名も昭和16年(1941年)には国民学校へと、また27年(1952
年)には手稲町立手稲北小学校へとそれぞれ改称されて今日に至っている。
 ここで若干のエピソードを紹介すると大正2年10月に各小学校長宛に出された公文書の中で、「寒気激烈の日は一時授業を休止するなど臨機の処置をなし…」とか「近来生徒児童を殴打し、校下の非難を受くる者有るを聞くは、教育上恂に遺憾とする所なり」という内容がそれぞれ記述されている。
 前者の寒気対策に備えて授業の休止をも促すほど当時の寒気がいかに激しいものであったか想像できよう。今日ではこのようなことは無いものの吹雪の時の臨時休校、もしくは集団下校は、形を変えた対応とも思われる。
 後者の生徒、児童に対する教師の暴行については、現代にも多かれ少なかれ通ずるものがあるとも思われる。
 いずれにしても、先人たちのそうした諸々の苦労・苦難を経て今日の姿があることを今一度思い起こすことも時には、必要であろう。










今月のワンニャン♪

 今月は星置にお住まいの佐々木さん宅のるぅ君(キジトラ、♂、2歳)です。
 生後2ヶ月ほどで保護しました。  
 家族皆に愛され、今ではすっかり甘えん坊です。誰か出かける度ニャーニャー騒ぎますが、たまに帰省する兄(人)にだけ、ライバル心を燃やします。

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2018/06/05  (8:58 am)
カテゴリ: Web ぽれーる : 
執筆者: staff (8:58 am)
星置の歴史を歩く(第32回) 村元健治 

手稲土功川は星置からスタート

 手稲曙地区の樽川通り沿いに流れて新川に注いでいる川が「手稲土功川」と呼ばれていることは良く知られている。 
 ところが川と名は付くものの、その水は澱んで汚く実質的にドブ川そのものに見えるばかりか、その流れを遡っても途中で途切れていたりして何処から流れてきているのか、その出発点も良く判らないなどいろいろ疑問点が浮かんでくる。
 この点、どうなのかというと、この川は確かに土功川というように川の名が付けられているものの、実は自然川ではなく大正年代に、星置、下手稲(曙)地区に広がる湿地帯の水を抜いて田畑を造成したいという農業者たちが、土功組合という土地改良のための組織を結成して3年がかりで取り組んだ人工の排水溝(路)だったのだ。             
 手稲山の麓から下の平坦な地区を中心に泥炭湿地地帯に覆われていたのだが、とくに星置、曙地区もその傾向が強く、農業者の間から開拓の鍬が振り下ろされて以来、排水対策を行って畑作物、米を作りたいという願いが出されていた。 
 そうした雰囲気の高まりを受けて、その夢実現のために取り組まれた組織体制が、大正10年(1921年)3月に作られた「下手稲土功組合」だった。   
 組合創立の狙いは、「手稲村大字下手稲村・同山口村字星置の区域内に耕作上の便より排水溝を開鑿して悪水の疎通を図るべく土功組合の設立を企画し…」( 北海道土功組合史より抜粋)とあるように、下手稲村(曙)と星置の両地区の排水を行うために結成された。      
 農業者59人が組合員となって参加したが、排水溝は手稲曙地区を通過して最終的に新川に達するコースを3カ年かけて国と地主(農業者)がそれぞれ半々ずつ負担して実施した。排水することにより畑地もしくは水田として利用できる見込みの許可面積は563haで、その工事費は38,740円に達したと伝えられている(「手稲町誌 昭和42年より」)。
 工事は大正11年9月から始まって幹線排水路が完成したのが12年10月。
その後の支線を含めて全ての工事が終えたのが14年の9月のことだったようだが、いずれにしてもまる3年間も要したということはそれなりの大変な工事だったことがうかがえる。        
 この点、それらの様子を伝える資料として「手稲開基110年記念誌」があるので紹介しよう。          
 工事の概要等の記述の後で「…掘られる後から直ぐに砂が崩れるので、非常な苦労をした難工事であった。この排水溝のお蔭で、この地区でもどうにか普通作物ができるようになったものである。」
 このように山口運河の掘削時と同じように掘削中から土砂が崩壊、流入するという非常に困難な事態に直面しながら、工事を進めなければならなかったという厳しい状況にあったようだ。しかし、そんな難工事だったにも関わらず、その効果は普通作物(畑作物)の作付が可能になったことに象徴されるように十分あったようだ。              
 ここで改めて強調しておきたいことは、この排水溝のスタート地点が星置地域に、具体的に記述すると1条6丁目の現「星の里会館」傍を出発点としてあることだ。              
 ここから手稲曙に向けて排水溝が道路沿いに掘られているが、その幅も3〜5mほどで狭い上に、水もほとんど流れておらず正にドブ川状態故、ほとんど顧みられない。こうした汚い状態を改善するために、昭和62年(1987年)から曙地区で22億円の予算をかけて開発局が同川の幅の拡張、側面のブロック化並びに親水等を進めるリニューアル事業を実施したにも関わらず、依然として変わらなく今日まで続いている。      
 いずれにしても今や、ドブ川同然の姿になっているものの、「手稲土功排水」とも呼ばれる手稲土功川の掘削は、単に農地を開発しただけでなく、その後の道路の整備、住宅地の造成などのインフラ整備面にも繋がっていった重要な役割を果たしてきたことを私たちは、決して忘れてはいけないものと思われる。










今月のワンニャン♪

 今月は星置にお住まいの川島さん宅のもちゃ君(ラブラドゥードル、♂1歳6ヶ月)です。
 半年ほど前に雪の降らない所からやって来たもちゃ君、雪が珍しくてパクパク! 
 人が大好き!           
体重は20キロ位あって大きいけど、見かけたら声をかけてね!

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