Webぽれーる 第151号 (2018年8月31日発行)
執筆者: staff (6:40 am)
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星置の歴史を歩く(第35回) 村元健治 〜住宅の変遷〜 今日の星置の住宅を眺めると、星置駅周辺の高層マンションから始まってオーソドックスな三角屋根の住宅、無落雪のフラット屋根の住宅、スエーデンハウス、アメリカンハウスなどの輸入住宅などなどまさに多種多様な住宅のオンパレードだ。 こうした外見の違いだけでなく、その内部も見ても、いずれの住宅もアルミサッシ、複合ガラス、セントラルヒーティングなどの機密性・暖房効果を高める建築・建具資材などが使われて今や、冬でも真夏のような服装で快適に過ごせるほど暖かいものになった。 こうした快適な住まいに暮らしている現代人の我々には、昔の人たちがこれら住宅のことで大変、苦労したことについて中々、思い至らないのだが、今一度、振り返ってみることも決して無駄でもあるまい。 明治17年(1885年)に岩国から山口地区に入植した村岡喜兵衛の末子だった乙次郎氏が昭和40年(1965年)に、入植当時の住居について次ぎのように回想している。 「開墾の最初に手がけたのは小屋だった。小屋は、幅2間半の長さ4間くらいの堀たて、屋根は笹や草を敷いた上に荒筵を敷いただけのものであった」(手稲町誌 上 昭和43年)。 このように開墾作業の最初の仕事というものが、自分たちが住む住居を作ることから始まるのだが、これを称して「着手小屋」とも言った。その形は周りにある木を切って丸太とし、それを両手で合掌するように組み合わせて作ることから「合掌小屋・拝み小屋」とも呼ばれた。屋根、壁はもちろん、中の土間も含めてこれまた周りに密生している草・笹などで覆った。丸太を地中に埋めることから「掘立小屋」とも呼ばれたが、入口は筵などで塞いだが、風雨はもちろん雪などが容赦なく吹き込むなどおよそ人間が住むような代物では無かった。 とりわけ寒さに慣れていない山口、広島県からの入植者たちにとって、想像を絶するほどの降雪と寒さの厳寒期の中で、このような粗末な小屋で暮らすことはとても耐えられないほどの辛さ・苦痛であったと思われる。 他の地区でも見られたが、そうだったようだが星置、山口地区でも朝、起きると布団の襟が霜で吐く息で真っ白になることはもちろん、雪が絶えず入り込んだりしてとても難儀したことは良くあったことだ。 こうした苦難の住まいを経て、その後板囲い、わら(麦)葺き、土台付きの家へと徐徐に人間らしい住居に替わって行くのだが、土台付きのことで、ここで一寸、興味深いことを紹介すると、その土台の礎石として星置川の玉石が使われたことがあったという。 このことはそれだけ大きな石が、当時の星置川にあったということを示していようが、とにかくそのような変遷を経て、星置・山口の住宅は、時代とともに改善されて今日の立派かつ快適で、しかも多様なものへ移り変わってきた。 ![]() 今月のワンニャン♪ 今月は星置にお住いの水谷さん宅の凛花ちゃん(北海道犬、♀、7ヶ月)です。 元気盛りでとてもパワフルなおてんば娘! でも、ちょっぴり甘えん坊な我家のアイドルです。 ![]() |