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2018/08/05 (9:49 am)
Webぽれーる 第150号  (2018年7月31日発行)
執筆者: staff (9:49 am)
星置の歴史を歩く(第34回) 村元健治 

自給自足時代から購入・グルメ時代に  〜食生活の変遷〜

 今日の星置の人たちを含めた現代の私達の食生活、食べ物を巡る状況は、、飽食、外食、グルメという言葉に象徴されるように世界各地から輸入された食糧を使った多種多様な食べ物・料理が出回っている時代と言える。
 時代を遡ってこの地に入植した人々は、いったいどのような食生活をしていたのであろうか。原点とも言うべき入植当時の食生活を振り返ってみることにしたい。
 手稲町誌(42・上)に、明治17年( 1884年)の山口村の農産物の作付反別(面積)が掲載されている。それによると総面積30町(ha)のうちベスト5を挙げると.愁丕.2町⊂豆(アズキ)5.5町B臚Γ.3町ぐ(アワ)3.2町デ藁觸(ジャガイモ)3町の順となっている。
 後にメインの作物になる小麦は明治27・28年ころより、また米は明治末から大正時代にかけてそれぞれ栽培されるようになるのだが、この入植当初の頃は無い。
 これら5作物は、小豆、大豆の一部は多少販売もされた可能性はあるものの、そのほとんどは自分の家で食べるために作った自給用作物と言える。特にこれら作物の中で注目されるのは,離愁个鮹羶瓦豊い琉澄△修譴紡茖業嵬椶飽銘屬垢襪海箸砲覆覽(キビ2.3町)などの雑穀類と呼ばれる作物が非常に多かったことだ。
 これら雑穀類は、ソバの60日収穫に典型的に見られるように、かなり野生に近い作物だけあって、収穫も早くできるだけでなく、病虫害に強い上、冷害にも強かった。
 とりわけソバは、主作物の中でも最も早く収穫できたし、荒蕪地でもよくできた。
 料理法はソバ粉をぬるま湯に入れた後、熱湯で掻き混ぜて作る「ソバ掻き」あるいは「ソバ団子」が良く食べられた(山口開基百年史)。
 また雑穀類ではないがイ稜藁觸鬚蓮∨務て擦任魯献礇イモと呼ばれ早ければ6月下旬頃から出る新イモを食べることもできた。当時は「ゴショ(五升)イモ」とも呼ばれて、冷害知らずで1個のタネイモから五升分のイモが獲れるということで名付けられたものだ。
 とにかく開拓農家にとっては、馬鈴薯はソバとともに飢えを救ってくれる無くてはならない作物で「救荒作物」の一つとして歓迎された。
 当時の食生活というのは、こうした地域で獲れる作物を使うしかなかった。したがってその食材も非常に限定されるばかりでなく、その調理の味付け法も砂糖が極めて高価なものだった故、塩を主体とした味付けされたものが多かったゆえ、非常に単純・素朴なものだった。
 入植当時の食生活で忘れられないものに、栽培面積にはもちろん入れられることが無かったが、開拓民たちに広く、活用された山菜があった。
 作物がまだ十分に実らない4・5月を中心にフキ、ワラビ、コゴミ(クサソテ
ツ)、セリなどの多様な山菜を採食して、冬の間、欠乏していたビタミン,ミネラルを補給するなど不足する食糧資源を補った面は大きい。
 いずれにしても、山菜を含めた自給自足の食生活からその後、野菜類、米麦などの穀物類が作付されるなど多様な作物が作られるようになっていくと、自給生活も味噌、豆腐はもちろん、漬物の製造などに広がっていくとともに、色々な料理も出てくるなどその食生活は少しずつ改善されていったのである。
 開拓当初、盛んに作られたアワ、キビは、今や小鳥の餌になっている。また山菜は、一部の人の嗜好品となるなど、その変わり様には驚かされる。
 他方、現在、謳歌・堪能されているグルメも、その陰で進行する飽食からくる肥満を始め心臓病、ガンなどの成人病( 生活習慣病)の発生などを考えると、改めて食生活のあり方が鋭く、今日問われてきていると言えよう。












今月のワンニャン♪

 今月は星置にお住まいの肥塚さん宅のパインちゃん(オカメインコ、♀、13歳)です。
 チャームポイントはほっぺが赤いところだよ!
 お腹が空いた時や遊びたい時など何かをして欲しい時は声の調子が変わります。

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