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2018/05/09 (8:24 am)
Webぽれーる 第147号  (2018年4月30日発行)
執筆者: staff (8:24 am)
星置の歴史を歩く(第31回) 村元健治 

曲長通は本間農場の私設道路だった

 国道5号線の稲穂4条7丁目の側にあるスーパー・ジョイの所から北側に向かって、国道337号の交差点まで続く道路は、「曲長通」と呼ばれている。通りの名称は「かねちょう」と呼ぶのだが、初めての人は「きょくちょう」と呼ぶなどして呼び方としては難しいと言われている。その曲長通と呼ばれる道路の謂われには、札幌の老舗の酒造店が経営をしていた本間農場が関わっている。同農場の私設道路として開鑿された道路に屋号である曲長の名称が付けられたのだが、農場の土地が三菱鉱業が経営する手稲鉱山の鉱滓地として買収されたことにより農場解散に追い込まれるという誠に数奇な運命を辿ったのだ。        
 今回はこのことについて紹介することにしたい。             
 本間農場の母体とも言うべき「本間商店」は、初代江州大津出身の長助が明治10年(1878年)に札幌の南3条東2丁目の所で酒造業を始める。同業者の中でも早い開業で、老舗の一つだった。製造した酒の名柄では、「はつ緑」、「月の春」、「初桜」、「金麗」などであったが、中でも金麗は定評があった。  
 大正2年(1913年)に札幌で行われた「第3回清酒品評会受賞者一覧」で、「はつ緑2号」が一等に、また昭和13年(1938年)には「金麗」が入選している(加藤良己著『北海道の酒造家と酒造史資料』)。
 このように順調な経営を行ってきたが、明治の末頃、経営多角化の一環と思われるが手稲稲穂(当時は下手稲星置)に酪農を行うべき農場を取得した。
 この本間農場については、大正2年に北海道庁が出した「北海道農場調査」によると、「明治37年丹内又吉ヨリ買入レタルヲ始メトシテ漸次膨張シテ現今二至レリ」と記されている。土地面積は、128町ほどで、そのうち畑が102町を占めているが、これら畑では燕麦、大豆のほか牧草の栽培も行なっていた。小作農家が26戸うち農場の敷地内に居住する者が6戸となっているが、その他、通いが10戸となっており、小作経営をしていたことが伺われる。          
 注目の道路については、「農場付近交通ノ状況」と題して「軽川停車場ヲ去ル西北方鉄道線二沿フテ約六百間、南方入口ヨリ鉄道踏切ヲ経テ札樽国道二約五十間該入口ヨリ山口村二至ル約六百間私設道路ヲ開鑿シテ以テ樽川村及銭函村二至ル便アリ」と記しているように私設道路として開鑿されたのだ。このいわば本間農場の農道と云うべき道路が、後の曲長通となっていくわけである。     
 次にもう一つの注目すべきこととして、同農場の土地が手稲鉱山の鉱滓池になったことである。同鉱山は、昭和10年(1935年)に三菱鉱業が経営するところとなるのだが、政府の産金奨励政策などの後押しなどもあって、その後、急速に大増産体制を敷いていく。その際、選鉱処理した鉱物の残滓を貯蔵する沈殿池の確保が欠かせなかったが、その白羽の矢が立てられたのが本間農場の土地だった。札樽国道を越えて函館本線の北側、現在の札幌市運転免許試験場、手稲軽工業団地、星置運動公園を含む近辺を所有していた同農場の土地を格好の鉱滓地として狙われたのである。
 大三菱からの強い要請を前にして、2代目長助は、買収されることに同意をせざるを得なかったのだろうと思われるが、問題は農場内に居住していた小作農家の人たちだった。         
 ある人は富丘に、またある人は隣の山口に、またその他の人達は銭函、広島町に転居をしていった。これらの人達は北陸出身が多く、互いに気心も知れる仲間同士であったというから、それぞれ離れ離れに転居していくことについては、相当辛いものがあったに違いない。











今月のワンニャン♪

 今月は星置にお住まいの光沢さん宅のパインちゃん(シェルティ♀、7歳)です。
 パインちゃんは2代目のシェルティ。人の言っていることは何でも解かっている様子です。
 夜に寝る時は息子さんと寝るのが習慣で、2階へ自分で上がり部屋で一緒に寝ます。

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