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2018/09/05  (1:20 pm)
カテゴリ: お知らせ : 
執筆者: admin (1:20 pm)

 
【新聞休刊日のお知らせ】
9月の新聞休刊日は10日(月)です。
10日の朝刊配達はありませんので、ご了承ください。
 
【祝日の夕刊について】
9月17日(月)と24日(月)は祝日のため、夕刊はありません。
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2018/08/05  (9:49 am)
カテゴリ: Web ぽれーる : 
執筆者: staff (9:49 am)
星置の歴史を歩く(第34回) 村元健治 

自給自足時代から購入・グルメ時代に  〜食生活の変遷〜

 今日の星置の人たちを含めた現代の私達の食生活、食べ物を巡る状況は、、飽食、外食、グルメという言葉に象徴されるように世界各地から輸入された食糧を使った多種多様な食べ物・料理が出回っている時代と言える。
 時代を遡ってこの地に入植した人々は、いったいどのような食生活をしていたのであろうか。原点とも言うべき入植当時の食生活を振り返ってみることにしたい。
 手稲町誌(42・上)に、明治17年( 1884年)の山口村の農産物の作付反別(面積)が掲載されている。それによると総面積30町(ha)のうちベスト5を挙げると.愁丕.2町⊂豆(アズキ)5.5町B臚Γ.3町ぐ(アワ)3.2町デ藁觸(ジャガイモ)3町の順となっている。
 後にメインの作物になる小麦は明治27・28年ころより、また米は明治末から大正時代にかけてそれぞれ栽培されるようになるのだが、この入植当初の頃は無い。
 これら5作物は、小豆、大豆の一部は多少販売もされた可能性はあるものの、そのほとんどは自分の家で食べるために作った自給用作物と言える。特にこれら作物の中で注目されるのは,離愁个鮹羶瓦豊い琉澄△修譴紡茖業嵬椶飽銘屬垢襪海箸砲覆覽(キビ2.3町)などの雑穀類と呼ばれる作物が非常に多かったことだ。
 これら雑穀類は、ソバの60日収穫に典型的に見られるように、かなり野生に近い作物だけあって、収穫も早くできるだけでなく、病虫害に強い上、冷害にも強かった。
 とりわけソバは、主作物の中でも最も早く収穫できたし、荒蕪地でもよくできた。
 料理法はソバ粉をぬるま湯に入れた後、熱湯で掻き混ぜて作る「ソバ掻き」あるいは「ソバ団子」が良く食べられた(山口開基百年史)。
 また雑穀類ではないがイ稜藁觸鬚蓮∨務て擦任魯献礇イモと呼ばれ早ければ6月下旬頃から出る新イモを食べることもできた。当時は「ゴショ(五升)イモ」とも呼ばれて、冷害知らずで1個のタネイモから五升分のイモが獲れるということで名付けられたものだ。
 とにかく開拓農家にとっては、馬鈴薯はソバとともに飢えを救ってくれる無くてはならない作物で「救荒作物」の一つとして歓迎された。
 当時の食生活というのは、こうした地域で獲れる作物を使うしかなかった。したがってその食材も非常に限定されるばかりでなく、その調理の味付け法も砂糖が極めて高価なものだった故、塩を主体とした味付けされたものが多かったゆえ、非常に単純・素朴なものだった。
 入植当時の食生活で忘れられないものに、栽培面積にはもちろん入れられることが無かったが、開拓民たちに広く、活用された山菜があった。
 作物がまだ十分に実らない4・5月を中心にフキ、ワラビ、コゴミ(クサソテ
ツ)、セリなどの多様な山菜を採食して、冬の間、欠乏していたビタミン,ミネラルを補給するなど不足する食糧資源を補った面は大きい。
 いずれにしても、山菜を含めた自給自足の食生活からその後、野菜類、米麦などの穀物類が作付されるなど多様な作物が作られるようになっていくと、自給生活も味噌、豆腐はもちろん、漬物の製造などに広がっていくとともに、色々な料理も出てくるなどその食生活は少しずつ改善されていったのである。
 開拓当初、盛んに作られたアワ、キビは、今や小鳥の餌になっている。また山菜は、一部の人の嗜好品となるなど、その変わり様には驚かされる。
 他方、現在、謳歌・堪能されているグルメも、その陰で進行する飽食からくる肥満を始め心臓病、ガンなどの成人病( 生活習慣病)の発生などを考えると、改めて食生活のあり方が鋭く、今日問われてきていると言えよう。












今月のワンニャン♪

 今月は星置にお住まいの肥塚さん宅のパインちゃん(オカメインコ、♀、13歳)です。
 チャームポイントはほっぺが赤いところだよ!
 お腹が空いた時や遊びたい時など何かをして欲しい時は声の調子が変わります。

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2018/08/02  (12:11 pm)
カテゴリ: お知らせ : 
執筆者: admin (12:11 pm)

 
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8月の新聞休刊日は13日(月)です。
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2018/07/03  (6:30 am)
カテゴリ: Web ぽれーる : 
執筆者: staff (6:30 am)
星置の歴史を歩く(第33回) 村元健治 

住民たちの熱意・寄付で始められた教育

 教育が実施されて神社と墓の設置もそれぞれ行われるようになったら、その開拓集落は定着段階に入ったとみられる。その意味で、これら3大取り組みの状況は、開拓集落の定着度合いを占うメルクマール(指標)ともいえる。
 さてこれらの中でも子弟教育に繋がる教育は、最も重要な取り組みとなるところだ。そこで今回は星置・山口地区の教育について見ることにしたい。
 星置、山口地区の子供たちが通う札幌市手稲北小学校はかつて山口小学校と呼ばれていた。現在の手稲北小学校と呼ばれるようになったのは、昭和27年(1952年)からのことだ。その山口小学校の創設は、山口地区の住民たちによって行われただけなく、その後相次いで発生した火災に際しても寄付によって再建させるという取り組みが行われたのだ。住民たちの教育に対する並々ならぬ熱意・意欲を感じさせるものといえる。
 山口地区は、明治14年にリーダーの山口県出身の宮崎源次右ヱ門らの入植を契機に、翌年の52戸の入植と本格的に進んでいった。注目の子弟教育については、住民からの要請を受けて生田春正が明治19年(1886年)に寺子屋を設立したのが始まりと言われている。ここでは子供たちに読み書きと算術が教えられたが、あいにくこの寺子屋は山火事により焼失してしまった。しかし、その後、間もなく住民たちの手で再建されたよう
だ。
 こうして山口地区での子弟の教育が曲がりなりにもスタートするのだが、その後、寺子屋では手狭で子供たちに十分な教育ができないとして、明治25年(1892年)になって、住民から提供された土地に、21坪の校舎が建てられた山口村尋常小学校が設立された。これら建設にかかった経費は200円だったが、当時、政府などの行政機関からの支援が十分では無かったこともあってほとんど住民たちが寄付の形で負担したという。
 開校当時の生徒は3カ年の修業のため1〜3年生までしかいなく、総勢20人足らずで決して多くはなかった。教科は国語、算術に修身と体育がそれぞれ加わえられて4科目となった。
 この学校には、山口はもとより星置の子供たちも通学するなど、それなりの整備もされていった。しかし明治32年( 1899年)10月に不運にも再び、火災に見舞われ校舎はもとより、器具、書籍等を全焼させてしまう事態となった。
 この災難に直面して関係者の驚きと苦悩は大変なものだった。住民たちは一日も早く学校再建に取り組まねばと思い、再び、寄付集めに奔走した結果、校舎の建設費等の経費の3分の2(375円)を寄付で集めたのだ。
 この取り組みは、当時のマスコミも注目するところとなって北海道毎日新聞(明治32年11月3日付け)の中で「70戸の小村にして地味痩土、1カ年の収穫物は僅々3千円過ぎずにして到底、校舎を新築するの余力なく…」と記述しているように住民は大変、厳しい経済的状況にあったにも関わらずこれだけの寄付が集められたことが報じられている。
 住民たちの子弟教育に対する熱い思い、並々ならぬ決意を見る思いがする。
 この地域住民の寄付等により建設はスムーズに進み、火災後のほぼ1年後の明治33年(1900年)に30坪という前の時より大きな校舎が無事建設された。
 この後、同小学校は教員の増員、教室の増設、教科の拡充等を逐次行っていく。
 また校名も昭和16年(1941年)には国民学校へと、また27年(1952
年)には手稲町立手稲北小学校へとそれぞれ改称されて今日に至っている。
 ここで若干のエピソードを紹介すると大正2年10月に各小学校長宛に出された公文書の中で、「寒気激烈の日は一時授業を休止するなど臨機の処置をなし…」とか「近来生徒児童を殴打し、校下の非難を受くる者有るを聞くは、教育上恂に遺憾とする所なり」という内容がそれぞれ記述されている。
 前者の寒気対策に備えて授業の休止をも促すほど当時の寒気がいかに激しいものであったか想像できよう。今日ではこのようなことは無いものの吹雪の時の臨時休校、もしくは集団下校は、形を変えた対応とも思われる。
 後者の生徒、児童に対する教師の暴行については、現代にも多かれ少なかれ通ずるものがあるとも思われる。
 いずれにしても、先人たちのそうした諸々の苦労・苦難を経て今日の姿があることを今一度思い起こすことも時には、必要であろう。










今月のワンニャン♪

 今月は星置にお住まいの佐々木さん宅のるぅ君(キジトラ、♂、2歳)です。
 生後2ヶ月ほどで保護しました。  
 家族皆に愛され、今ではすっかり甘えん坊です。誰か出かける度ニャーニャー騒ぎますが、たまに帰省する兄(人)にだけ、ライバル心を燃やします。

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2018/07/02  (5:33 pm)
カテゴリ: お知らせ : 
執筆者: admin (5:33 pm)

 
【新聞休刊日のお知らせ】
7月の新聞休刊日は9日(月)です。
9日の朝刊配達はありませんので、ご了承ください。
 
【祝日の夕刊について】
7月16日(月)は祝日のため、夕刊はありません。
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2018/06/05  (8:58 am)
カテゴリ: Web ぽれーる : 
執筆者: staff (8:58 am)
星置の歴史を歩く(第32回) 村元健治 

手稲土功川は星置からスタート

 手稲曙地区の樽川通り沿いに流れて新川に注いでいる川が「手稲土功川」と呼ばれていることは良く知られている。 
 ところが川と名は付くものの、その水は澱んで汚く実質的にドブ川そのものに見えるばかりか、その流れを遡っても途中で途切れていたりして何処から流れてきているのか、その出発点も良く判らないなどいろいろ疑問点が浮かんでくる。
 この点、どうなのかというと、この川は確かに土功川というように川の名が付けられているものの、実は自然川ではなく大正年代に、星置、下手稲(曙)地区に広がる湿地帯の水を抜いて田畑を造成したいという農業者たちが、土功組合という土地改良のための組織を結成して3年がかりで取り組んだ人工の排水溝(路)だったのだ。             
 手稲山の麓から下の平坦な地区を中心に泥炭湿地地帯に覆われていたのだが、とくに星置、曙地区もその傾向が強く、農業者の間から開拓の鍬が振り下ろされて以来、排水対策を行って畑作物、米を作りたいという願いが出されていた。 
 そうした雰囲気の高まりを受けて、その夢実現のために取り組まれた組織体制が、大正10年(1921年)3月に作られた「下手稲土功組合」だった。   
 組合創立の狙いは、「手稲村大字下手稲村・同山口村字星置の区域内に耕作上の便より排水溝を開鑿して悪水の疎通を図るべく土功組合の設立を企画し…」( 北海道土功組合史より抜粋)とあるように、下手稲村(曙)と星置の両地区の排水を行うために結成された。      
 農業者59人が組合員となって参加したが、排水溝は手稲曙地区を通過して最終的に新川に達するコースを3カ年かけて国と地主(農業者)がそれぞれ半々ずつ負担して実施した。排水することにより畑地もしくは水田として利用できる見込みの許可面積は563haで、その工事費は38,740円に達したと伝えられている(「手稲町誌 昭和42年より」)。
 工事は大正11年9月から始まって幹線排水路が完成したのが12年10月。
その後の支線を含めて全ての工事が終えたのが14年の9月のことだったようだが、いずれにしてもまる3年間も要したということはそれなりの大変な工事だったことがうかがえる。        
 この点、それらの様子を伝える資料として「手稲開基110年記念誌」があるので紹介しよう。          
 工事の概要等の記述の後で「…掘られる後から直ぐに砂が崩れるので、非常な苦労をした難工事であった。この排水溝のお蔭で、この地区でもどうにか普通作物ができるようになったものである。」
 このように山口運河の掘削時と同じように掘削中から土砂が崩壊、流入するという非常に困難な事態に直面しながら、工事を進めなければならなかったという厳しい状況にあったようだ。しかし、そんな難工事だったにも関わらず、その効果は普通作物(畑作物)の作付が可能になったことに象徴されるように十分あったようだ。              
 ここで改めて強調しておきたいことは、この排水溝のスタート地点が星置地域に、具体的に記述すると1条6丁目の現「星の里会館」傍を出発点としてあることだ。              
 ここから手稲曙に向けて排水溝が道路沿いに掘られているが、その幅も3〜5mほどで狭い上に、水もほとんど流れておらず正にドブ川状態故、ほとんど顧みられない。こうした汚い状態を改善するために、昭和62年(1987年)から曙地区で22億円の予算をかけて開発局が同川の幅の拡張、側面のブロック化並びに親水等を進めるリニューアル事業を実施したにも関わらず、依然として変わらなく今日まで続いている。      
 いずれにしても今や、ドブ川同然の姿になっているものの、「手稲土功排水」とも呼ばれる手稲土功川の掘削は、単に農地を開発しただけでなく、その後の道路の整備、住宅地の造成などのインフラ整備面にも繋がっていった重要な役割を果たしてきたことを私たちは、決して忘れてはいけないものと思われる。










今月のワンニャン♪

 今月は星置にお住まいの川島さん宅のもちゃ君(ラブラドゥードル、♂1歳6ヶ月)です。
 半年ほど前に雪の降らない所からやって来たもちゃ君、雪が珍しくてパクパク! 
 人が大好き!           
体重は20キロ位あって大きいけど、見かけたら声をかけてね!
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2018/06/01  (2:18 pm)
カテゴリ: お知らせ : 
執筆者: admin (2:18 pm)

  
【新聞休刊日のお知らせ】
 
6月の休刊日は11日(月)です。
11日(月)の朝刊配達はありませんので、ご了承ください。
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2018/05/09  (8:24 am)
カテゴリ: Web ぽれーる : 
執筆者: staff (8:24 am)
星置の歴史を歩く(第31回) 村元健治 

曲長通は本間農場の私設道路だった

 国道5号線の稲穂4条7丁目の側にあるスーパー・ジョイの所から北側に向かって、国道337号の交差点まで続く道路は、「曲長通」と呼ばれている。通りの名称は「かねちょう」と呼ぶのだが、初めての人は「きょくちょう」と呼ぶなどして呼び方としては難しいと言われている。その曲長通と呼ばれる道路の謂われには、札幌の老舗の酒造店が経営をしていた本間農場が関わっている。同農場の私設道路として開鑿された道路に屋号である曲長の名称が付けられたのだが、農場の土地が三菱鉱業が経営する手稲鉱山の鉱滓地として買収されたことにより農場解散に追い込まれるという誠に数奇な運命を辿ったのだ。        
 今回はこのことについて紹介することにしたい。             
 本間農場の母体とも言うべき「本間商店」は、初代江州大津出身の長助が明治10年(1878年)に札幌の南3条東2丁目の所で酒造業を始める。同業者の中でも早い開業で、老舗の一つだった。製造した酒の名柄では、「はつ緑」、「月の春」、「初桜」、「金麗」などであったが、中でも金麗は定評があった。  
 大正2年(1913年)に札幌で行われた「第3回清酒品評会受賞者一覧」で、「はつ緑2号」が一等に、また昭和13年(1938年)には「金麗」が入選している(加藤良己著『北海道の酒造家と酒造史資料』)。
 このように順調な経営を行ってきたが、明治の末頃、経営多角化の一環と思われるが手稲稲穂(当時は下手稲星置)に酪農を行うべき農場を取得した。
 この本間農場については、大正2年に北海道庁が出した「北海道農場調査」によると、「明治37年丹内又吉ヨリ買入レタルヲ始メトシテ漸次膨張シテ現今二至レリ」と記されている。土地面積は、128町ほどで、そのうち畑が102町を占めているが、これら畑では燕麦、大豆のほか牧草の栽培も行なっていた。小作農家が26戸うち農場の敷地内に居住する者が6戸となっているが、その他、通いが10戸となっており、小作経営をしていたことが伺われる。          
 注目の道路については、「農場付近交通ノ状況」と題して「軽川停車場ヲ去ル西北方鉄道線二沿フテ約六百間、南方入口ヨリ鉄道踏切ヲ経テ札樽国道二約五十間該入口ヨリ山口村二至ル約六百間私設道路ヲ開鑿シテ以テ樽川村及銭函村二至ル便アリ」と記しているように私設道路として開鑿されたのだ。このいわば本間農場の農道と云うべき道路が、後の曲長通となっていくわけである。     
 次にもう一つの注目すべきこととして、同農場の土地が手稲鉱山の鉱滓池になったことである。同鉱山は、昭和10年(1935年)に三菱鉱業が経営するところとなるのだが、政府の産金奨励政策などの後押しなどもあって、その後、急速に大増産体制を敷いていく。その際、選鉱処理した鉱物の残滓を貯蔵する沈殿池の確保が欠かせなかったが、その白羽の矢が立てられたのが本間農場の土地だった。札樽国道を越えて函館本線の北側、現在の札幌市運転免許試験場、手稲軽工業団地、星置運動公園を含む近辺を所有していた同農場の土地を格好の鉱滓地として狙われたのである。
 大三菱からの強い要請を前にして、2代目長助は、買収されることに同意をせざるを得なかったのだろうと思われるが、問題は農場内に居住していた小作農家の人たちだった。         
 ある人は富丘に、またある人は隣の山口に、またその他の人達は銭函、広島町に転居をしていった。これらの人達は北陸出身が多く、互いに気心も知れる仲間同士であったというから、それぞれ離れ離れに転居していくことについては、相当辛いものがあったに違いない。











今月のワンニャン♪

 今月は星置にお住まいの光沢さん宅のパインちゃん(シェルティ♀、7歳)です。
 パインちゃんは2代目のシェルティ。人の言っていることは何でも解かっている様子です。
 夜に寝る時は息子さんと寝るのが習慣で、2階へ自分で上がり部屋で一緒に寝ます。

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2018/04/24  (2:01 pm)
カテゴリ: お知らせ : 
執筆者: admin (2:01 pm)
新聞休刊日のお知らせ
5月の新聞休刊日は7日(月)です。
7日(月)の朝刊配達はありませんので、ご了承ください。
 
ゴールデンウィークの夕刊について
4月30日(月)、5月3日(木)・4日(金)・5日(土)は祝日及び振替休日のため、夕刊はありません。
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2018/04/04  (5:27 pm)
カテゴリ: Web ぽれーる : 
執筆者: staff (5:27 pm)
星置の歴史を歩く(第30回) 村元健治

かつて大森林に覆われた星置・山口 

星置、山口地区の農業は稲作、酪農、畑作と時代によって変遷を経ながらも、山口地区においては特産物の「大浜みやこ」、「サッポロスイカ」をも誕生させるなど発展を見せてきた。しかし近年は高齢化と都市化のあおりを受けてその作付面積もじり貧となる中で、これら農業の土地利用に替わって増えてきたのが宅地を中心とした工業用地などの非農業的土地利用だ。その中でも依然として増え続けているのが宅地利用で、近年でも星置3条1丁目地区に「ほしが丘団地」が作られるなど、その勢いは衰えていない。
星置地区等の土地利用は、このように目まぐるしく変わってきたと言えようが、改めて、人々がこの地に入植する以前の土地利用というものは、どのようなものから始まったのかについて次に見ることにしたい。
これについては一言で言い表すなら、何も利用されていない自然そのものの状態、具体的に言うと一部湿地を含む大森林地帯であったのだ。
この大森林であったということは、実は何も私たちが住む星置・山口だけでなく、全道的にも当てはまるものでもあったことは言うまでもない。その意味で我が星置・山口地区もその例外では無かったということだ。
そこで、次にその大森林だったということを偲ばす幾つかの証言、資料を紹介したい。
まず一つ目は、星置に最初に入植した古老の話から紹介したい。この人は明治17年(1884年)に広島県から両親と共に13歳の時、入植した岡本ヒロ女だ。彼女によると「この辺、一帯は大木が茂っていて熊や狐が横行していてものすごくさびしいところだった。1本の大木から薪が5しきから7しきもできた」という。また汽車が通るのが見えなかった(ほど木が多かった)とも証言している(以上「手稲町誌」昭和43年・上)。
この証言によると、明治14年に既に小樽・幌内間を走った汽車の姿が森林が邪魔して良く見えなかったという意味だろうが、それほど物凄い大森林に覆われていたことが伺われる。それと1本の木から薪が5〜7敷も獲れたほどの大木があったというのも注目される。
敷(しき)というのは、開拓当時から高度経済成長時代に入るまでの北海道の暖房の主要な燃料になった薪を数えるときの単位を表すもので、長さ2尺(約60)、直径6寸(約14)の薪を高さ5尺(約150)、幅10尺(3m)に積み上げたものを指す。
この1敷分量の薪が1本の木から5〜7敷も獲れたというのだから、いかに凄い大木だったか想像できよう。
次に紹介するのは、明治開拓前の安政年代の頃だが、星置にいた早山清太郎のことだ。彼については本シリーズの第2回に取り上げた在住の人々の記事の中で取り上げたが、それら在住者の人の住宅のための木材を切り出す等、木の伐採業務の仕事をしていた。場所は滝の沢辺りということだが、いずれにしても木材の伐採を業務とするほど森林が豊富だったことが伺える。
最後に紹介するのが、これも本シリーズの第3回の札幌越え新道の建設に関係しての話だ。明治2年12月に札幌から銭函方面にかけて道を付けるにあたって、両地区から烽火を挙げて進むも湿地と森林に妨げられ、うまくできなかったということがあった。妨げられた具体的な場所は書かれていないが、どうも星置・銭函間の箇所を指していると言われるが、この地帯は正に、森林と湿地が織りなす難渋の地だった。大森林が邪魔をして目測を誤ったのであろうか。
以上、わずかな証言なり資料からの推測となったが、星置・山口の人々が入植する以前のこの地区というのは、ほとんど人の手が入っていない大森林というか、深い森に覆われていたことが伺えよう。そこの森には、ヒグマはもちろん、キツネ、シカなどの様々な動物たちが咆哮・闊歩していたことであろう。












今月のワンニャン♪

 今月は星置にお住まいの佐藤さん宅のジョン君(柴犬、♂、2歳)です。
 犬好き、人間大好きです。     
 初対面の犬にもズンズン行き、相手に吠えられることも・・・。      
悪気はないのよ〜、友達になりたいだけなの〜。              
と、母は心の中でつぶやいております。
 散歩中に会ったらよろしくねっ!

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